カメラであることを

ひと月に一度ほど通うバーがある。店の片隅には、ゴシック調のボックスアートが置かれており、その隣に年代物のカメラが飾られている。ある時、カメラに目を留めた女性客が、普段このカメラを使っているかと店主に尋ねた。単なる飾りであると答えた店主に、少し哀しそうな顔をしてその女性客がこう言った。

「フィルムは入れなくていいので、時々シャッターを切ってあげてください。そうしないと、カメラがカメラであることを忘れてしまうから。」

舞台劇を観ているかのような洒落た言葉だが、美しい立ち居振る舞いと、落ち着いた声の持ち主には、それを言うだけの資格と責任があるように感じられた。

今年になってから、仕事が週末に及ぶことが常となり、その結果、歌会や批評会には参加することができなくなった。歌集や歌書を読む時間もとれないことに、随分と苛立った。それでも、時々いただける原稿依頼によって、辛うじて歌を詠むことだけは続けられている。謂わば私の「シャッター」を切ってくださる方々に、私は恵まれている。

しかし、シャッターを切ることを本質とするのがカメラであるならば、歌を続けることに躍起になっている私は一体何であるのか。あるいは、私は何であることを忘れてしまいたくないのか。

この「何」に、「歌人」という言葉を素直にはめ込むことが、私にはできない。そうすることに、後ろめたさを感じてきた。

そんな折、先日発行された今橋愛と雪舟えまの同人誌「Snell」vol.6に寄せられた、高島裕の言葉に、頷くところがあった。

「自分は賞をもらつたから歌人だ、歌集を出したから歌人だ、などと思ひ始めた瞬間から、創造は、他の何かのための手段になつてしまひます。」

 

(「Snell」vol.6「歌人の悩みに答えるならば」)

カメラの形をしているものを、カメラと呼ぶのは容易い。「歌人」も同様だ。自らを定義する目だけは、曇らせないようにしたい。

依頼された歌をまとめる作業は、冒頭にあげた店ですることが多い。店内が薄暗いからよく見えないが、あの日以来、カメラの位置が時々変わっているように思える。

 

初出:短歌新聞 2009年11月 「新人立論」