「歌集」を遠くはなれて

英文短歌を詠むRON L. ZHENGという歌人がいる。彼は写真と短歌を合わせた紙歌集『leaving my found eden』を上梓している。

今、「紙歌集」と敢えて書いたのは、彼の作品はパソコンにダウンロードして閲覧する形式でも販売されており、それと区別したいからである。この電子ブックの歌集を便宜上「e歌集」と呼ぶとする。さらに、彼のウェブサイト「POETOGRAPHY」には、紙歌集の抄としてではあるが、雰囲気のあるアニメーションとともに作品が掲載されている。厳密な定義は措くとして、これを「ウェブ歌集」としておく。つまり、『leaving my found eden』は「紙歌集」「e歌集」「ウェブ歌集」の3つの形態として存在している。

歌群を「○○歌集」と呼ぶとき、この「○○」部分に入る言葉は、歌を運ぶ媒体にすぎないはずである。何に盛っても、歌それ自体の善し悪しは変わらない。しかし、一枚の絵も一幅の書も、それ自体で完結しながら、掛ける場所によって感じられ方が異なる。歌も同様であろう。

私は以前、土岐友浩の依頼でウェブ歌集『Blueberry Field』を制作した。カード状の短歌が画面上に散らばっており、マウスを操作して自由に読むことができる。このような見せ方は、私から土岐に提案したのだが、歌へ与える影響に相当心を砕いた記憶がある。

様々な形式で歌が発表されつつある中で、「歌集」という言葉で暗黙的に「紙歌集」を表す時代はいつまで続くのだろうか。紙歌集を相互に贈呈し合い、また、紙歌集から賞が選ばれるという短歌界の仕組みも、少しずつ変化してゆくのだろうか。

本で育った私は、「紙歌集」を多少贔屓目で見るかもしれない。紙の重さを感じつつ、目と手で歌を読むことに親しんできた。それでも、歌集のまとめられ方や、世に送られる方法が増えることそれ自体については、深く喜んでいる。

「紙歌集」こそが歌集としての完成であるとは考えない。そこからの新たな出発も、見てみたいのである。

【参考URL】

 

初出:NHK短歌 2010年2月号 「ジセダイタンカ」