歌に背丈を刻むとき

愛人でいいのとうたう歌手がいて言ってくれるじゃないと思う

俵万智『サラダ記念日』

俵万智の短歌が登場する映画「男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日」(一九八八年)を観た。右の歌の作者という設定の女子大生が、「なんて歌手が歌ってるか分かる?」と男友達に尋ねる場面がある。友達の回答は「分かる分かる」というものであるが、肝心の歌手名は台詞には登場しないため、私には分からなかった。『サラダ記念日』が出た頃、私はまだ八歳だった。

自転車のカゴからわんとはみ出してなにか嬉しいセロリの葉っぱ

「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ

教科書に載った歌を引いてみたが、俵万智の歌を「教科書で習った世代」とは、本質的に何を意味するのか。教科書ごとに取り上げられた歌は異なり、授業でどの程度扱われたかは、人によって異なる。ひとつ言えることは、サラダ記念日ブームを知る大人世代を通して、近代短歌以上に俵万智の歌に触れる機会が多かったということである。物心ついた頃には『サラダ記念日』などの俵万智の著作が身近にあった者や、教科書に掲載された歌だけではなく、教師から他の歌も紹介された者は、多いのではないだろうか。

しかし、大人世代が強調する俵万智の歌の「新しさ」については、理解しがたかった記憶がある。教科書に載っている現代小説や評論の文体を指して、誰も新しいとは思わないことと同様で、習う側としては、教科書に載っているのだから、口語で読まれた親近感のある短歌が普遍的だと思うものだ。その気持ちは、短歌の間口を広いものに感じさせた。俵万智の歌がなければ、現在の若手歌人は随分と淋しいものになっていただろう。

中高生の頃に、歌に出会う意味も考えておきたい。

「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの

深く酔ってもいないのに男が発するプロポーズの言葉に、どこまで本気を感じてよいのか途惑っている場面であるが、カンチューハイを飲めない年齢であっても、強いドラマ性を感じることができた。

しかし、この歌の初出は第三十一回角川短歌賞(一九八五年)の次席作品「野球ゲーム」であり、このとき俵万智はまだ二十二歳である。カンチューハイを飲める年齢を過ぎた今となっては、男は決して本気ではなかったのではないか、と思い直すようになった。そう考えると、主体の素直さは悲しいほどに眩しい。

どちらの読みが良い読みだろうか分からない。もちろん、他の解釈もあるだろう。ただ、変わることのない一首の歌が、年を重ねて変わりゆく読み手の物指しとなることは、歌にとっても読み手にとっても幸運なことではないだろうか。そしてそれは、「教科書で習った世代」だからこそ享受できるものである。

冒頭にあげた歌に戻りたい。最近になって「愛人でいいのと歌う歌手」がテレサ・テンであり、その歌が一九八五年の日本有線大賞を受賞した「愛人」であるということを知った。曲を聴いてみたが、歌詞の裏には「愛人でいたくない」という気持ちが溢れているように感じた。そもそも、当時の映像を観ると、テレサ・テンはウェディングドレスで歌っているではないか。その点をすっとばして、自身の恋愛観への応援歌だと素直に捉えるさまに、からっとした青春性を感じる。

それは、愛人でいい/わるいという問い自体が問われなくなったような現代において、やはり悲しいほどに眩しい。

四半世紀が過ぎて、『サラダ記念日』も、時代背景を手引きにしつつ読む必要が出てきたと思う。それは同時に、時代背景と切り離して歌を読むこともできるということを意味する。

そのとき、俵万智の歌を柱として背丈を刻んできた「教科書で習った世代」こそが、俵万智を再発見していけるのではないだろうか。

 

初出:「短歌」 2011年12月号 特集 俵万智