実体と名称との隙間 ――今野寿美歌集『かへり水』評

『かへり水』は日常を中心に、競走馬への想い、春日井建のへ挽歌、ハワイでの滞在など、多岐に取材した第八歌集である。言葉に対する鋭敏な感覚を心地良い韻律にのせるのが、今野作品の特徴であるが、その点についてはこれまでの歌集評においても繰り返し語られてきたのではないだろうか。本稿では、同じ切り口から入りつつも、「対象との距離の取り方」に方向を変えて『かへり水』の持つ一面ついて述べたい。

名をつけし人こそ謎の薔薇園のくれなゐあはきレディX

ゆふづつもゆふつづもありとする辞書を離れてまなこ西の空見る

かんぬきの一字をめでて探せどもたえてめぐりにあらぬ閂

薔薇そのものを離れて、薔薇の変わった名称、更には、その名称を薔薇に与えた人物にまで想像をめぐらせる一首目。複数の名称を持っているとしても、眼前に唯一である夕空を眺める二首目。実体そのものを象ったような、漢字としての「閂」を脳裏に浮かべつつ、身近に存在しない実体としての「閂」を詠んだ三首目。ともすれば普段は気付くことのない、実体と名称とのあいだに存在する僅かな隙間を拡げるような作品が集中に多い。

その「僅かな隙間」を見るために必要な距離であるのか、対象との距離が丁寧に保たれた歌が見受けられる。事物の名称に嘱目した歌から例を挙げたい。

ツルマルボーイはツルマルガールの子と聞けば世の中どうでもよいとも言へる

玄孫げんそんは孫の孫なりやしやごなり来孫らいそん昆孫こんそんその後は知らず

一首目では、安直とも言える競走馬の命名方法について、明確な判断を下さずに、霧散させる形でそのまま受け止めている。「ツルマルボーイ」という名称は、その名を負う「馬」という実体と不可分であるはずが、「ツルマルガール」という名称と並べられることで、記号化されてしまう。二首目においては、子孫の呼び方が玄孫・来孫・昆孫と続く中で、徐々に実用から離れていく様が詠まれているが、「昆孫」の先を調べるという介入を今野は行わない。

これらの歌は、一読すると言葉の持つ面白さについて詠んだ歌と言えるが、世界と作者の関わり方が、そっと挟み込まれている点に注目したい。同様のことは、次の歌にも言えるだろう。「見る」という動詞に絞って三首を挙げてみたい。

見しことのたしかに見つといふことの陽当たりながら降る雨のいろ

武蔵野のとある駅より見るとなく見し求愛の烏の構図

念入りに水浴びてゐる鴉なりにくからず見てそれまでのこと

陽に透ける天気雨を見ているのであるから、その色を感受しているはずである。しかし、それを言葉で定義することなく、寧ろ何も見えていないのではないかという懐疑に気持ちは向かう。武蔵野の駅で見るとなく見ているものは、烏そのものではなく、烏たちと風景との位置関係である。水を浴びる鴉を見つめて愛でつつも、それ以上の介入は行わない。

連作単位で読むと気付きにくいが、抜き出して並べてみると、歌の中に読み込まれた事物よりも、世界から遊離した主体に目がいく。では、次のような歌はどうだろうか。

アルメニアと呼べば少しく哀調の民族繊き弦の音があふ

べい茄子のべいの意を知り瞬けばそこに来てゐる九・一一

Messiahメサイアは油注がれたる者の意なれば想ふAmenまでを

アルメニアは国教としてキリスト教を採択した最も古い国である。カスピ海と黒海との間に位置し、被併合と独立とが繰り返された。前後の歌から察するに、聖夜にアルメニアからの楽団の演奏に立ち会った歌だろうか。弦楽器の響きが民族の背負う歴史と渾然となり、作者を包む。二首目。楕円形をした米茄子は、米粒の形をしているからその名が付いたのではないかと私は思っていたが、米国種とのこと。身近な食材が巨大で短いトンネルとなり、日常が世界情勢と繋がる。三首目では、イエス・キリストの物語を綴るヘンデルの「メサイア」に耳を傾け、最終歌詞である「Amen」に至るまでを、曲に深く身を浸してゆく作者が見える。

Messiahメサイア(メシア/救世主)」が「油注がれたる者」であるということは、「かんぬき」の漢字が「閂」であることや、「ツルマルボーイ」が「ツルマルガールの子」であることとは大きく異なる。「なるほど、面白い」と快哉を叫ぶことではなく、沈黙のままに深く頷くことを読み手に要求する。ここではもはや実体と名称との間に隙間はなく、名称が導く茫漠とした巨大な実体が、そのまま読み手に迫ってくるからだ。

このように、歴史や世界情勢や民族といった事物を大きく飲み込むような対象には、今野はそっと寄り添う姿勢をとる。介入したり性急に価値を決めたりしないことは、これまで見てきた歌と変わらないが、対象との距離は随分と近い。

AmenのAアーかぎりなき波となるああ究極の楽器は人体

「メサイア」の最後の歌詞において、声は音と化し、人体は楽器となる。その様を作者は距離を取って見ているのではなく、人体のひとつとして、自身をも楽器として感じているように思える。その感覚の発露として「ああ」という感嘆詞が一首に打ち込まれているのではないだろうか。掉尾を飾る歌としてこの歌が選ばれていることに、私は今野寿美の歌の世界の更なる展開を感じるのである。

 

初出:「りとむ」 2010年3月号